転載:朝日新聞「宮城の耕英地区 被災者救った開拓地のきずな」

宮城の耕英地区 被災者救った開拓地のきずな

2008年6月21日6時15分

写真駒の湯温泉で捜索活動する救助隊員たちにおにぎりとゆで卵を配る耕英地区の被災住民たち=16日午前4時45分、栗原市栗駒沼倉耕英東、黒川和久撮影地図

 岩手・宮城内陸地震は発生から21日で1週間。

 宮城県栗原市耕英地区。孤立した集落で、固いきずなが病人やけが人を救った。

 2週間に1度のごみ集めの日だった。土曜日の晴れた朝。新緑のブナに囲まれた耕英地区中心部の集積所には、4、5人の住民が車で集まっていた。

 午前8時43分。「今日のごみはもう終わりかな」。金沢大樹区長(65)が声をかけた瞬間、地面が揺れた。立っていられず、四つんばいになった。「年寄りは大丈夫だろうか。けが人がいるんじゃないか」。揺れがおさまると、その場にいた住民が安否確認のために散った。

 約40分で大半の住民の無事を確認した。住民らが助け出した「駒の湯温泉」の菅原孝さん(86)ら3人が大けがをしていることが分かった。しかし、電話が通じない。

 「緊急事態発生。誰かとってください」。観光イチゴ農園を営む菅原耕一さん(55)が無線で呼びかけた。「けが人がいます。道路が寸断されています」。連絡が取れたのは午前10時半ごろだった。

 「けがをしていませんか」。余震が続く中、約100人が暮らす耕英地区では、隣人の安否を確かめる多くの姿があった。

 金沢大樹区長は、小山忠三さん(79)が自宅の庭で座り込んでいるのを見つけた。上着が血で赤く染まっていた。落ちてきた額縁が後頭部を直撃したという。近所の住民も次々と駆けつけ、手ぬぐいで止血し、包帯代わりにシーツを巻いた。車にのせ、中心部の温泉施設「山脈(やま・なみ)ハウス」まで運んだ。

 同ハウスでは、元看護師の女性らが消毒や湿布などの手当てを始めた。

 道路のあちこちに亀裂が入っていた。集落とふもとを結ぶ2本の生活道路は、土砂崩れと地滑りで寸断されていた。停電し、電話も通じない。住民は間もなく、集落が孤立状態だと気づいた。

 無線で救助を呼びかけた菅原耕一さんは集落内の様子を見回っているとき、「110番して」とのさけび声を聞いた。「けが人がいる」。慌てて自宅に戻り、物置から無線機をとり出した。発電機で無線機を作動させ、「緊急事態発生」とさけんだ。受信した人を通じて消防に、負傷者数と地区が孤立状態であることを伝えた。

 及川安富さん(76)は、人工透析でふもとの病院に向かう予定だった。「どこさも出られなくなってしまった」と妻きみ子さん(76)と話した。間もなく、訪ねてきた金沢区長が「最初のヘリコプターに乗って山を下りて」と声をかけた。及川さん夫婦は車で山脈ハウスに向かった。

 地震で腕を骨折した観光客の女性など同ハウスには、負傷者らが集められた。金沢区長らは話し合い、負傷者や及川さんら5人を最初のヘリで運ぶことを決めた。午後2時ごろ、県警のヘリが到着し、5人は病院に運ばれた。続いて、高齢者や子どもらを下山させることで一致した。

 約3分の1の住民は山に残った。一夜明けた15日夜には、「駒の湯温泉」で捜索活動を続ける消防隊のために食料を持ち寄り、炊き出しを始めた。おにぎりを握った女性は「仲間が救出されるまでは山にいたい」と話した。

 だが、最終的には市の説得に応じて住民全員が山を下りた。

 農業の男性(58)は言う。「耕英は戦後に入植して我々が引き継いできた。この灯を消したくない」


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